Entry 8
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本日(8/5)、行われた「第5回国際高校生フォーラムin倉吉2006」プレゼンテーションの概要です。
(当日、配布された「日本語サマリー」から)

「銀河鉄道2006」
◆鳥取県立倉吉東高等学校
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 凶悪な犯罪事件に始まり、政治、経済、国際問題に至るまで、現代の諸問題の根底には、自己の利益を最優先させて他のことを考えない、自己中心的な考えがある様に思われる。なぜ人は自己中心的行動に走るのか。それは「死」というものがあるからだ。

 人間は1 0 0%死ぬ。その絶対的恐怖に対して人は「肉体が滅びれば、自分の存在もそこで終わりだ」と思う。死を終わりだと考えるから、人は自己中心的になる。生きている間に物質的豊かさや快楽などを求めようとするのである。

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 しかし、自分自身の死は生きている限り絶対に経験できないものだ。誰も死んだことがないのに、なぜ人は死に対して恐怖を感じるのだろうか。

 ある哲学者は、死を一人称、二人称、三人称に分けた。一人称の死とは、自分の死。絶対に経験したことがない「私」の死のことをいう。二人称の死とは、親しい人の死。身内や友人など「あなた」の死である。三人称の死とは、他人の死。顔も見知らぬ誰かの死のことだ。これは、人にとってハンカチや財布の紛失と同じ″消失"である。これに接しても、人は何とも思わない。

 そこから人間は自分の死、一人称の死を知ろうとした。三人称の死が私にとって消滅であるならば、第三者にとって自分の死も単なる消滅でしかありえない、というふうに考えたのだ。

 そこにあるのは完全なる孤独である。人と人との繋がりの中で生きてきた社会的生物である人間にとって、死とはかかる一切の関係性の遮断であり、故に最大の恐怖となるのだ。しかし、本当に死ねば一切繋がりはなくなってしまうのか。

 ここで重要となってくるのは「二人称の死」だ。友人・親類など、自分と"繋がり"をもった人の死。これが他の「死」と違う所は、残された者に大きな影響を与えるという事である。誰かの死は、必ず何らかの形で他の生に影響を及ぼす、繋がっている。

 死は残された者にとって完全な消滅ではない。死者は死後も生き続けるのである。

 生物的にも社会的にも、死があるからこそ次の生命に繋がっていく。繋ごうとする。遺伝子も文化も、死によって次に受け継がれ、変化、発展し、また次へと繋がっていく。また、死があるからこそ人間は生を考えることができる。死という締め切りがあるからこそ、人間は生に向かって真剣に取組もうとする。

 死があるからこそ人間は生を認識できる。死なくしては生などありえない。

 そういった意味から、「死」という概念は人間にとって普遍的価値と言えるのではないか。その具体的獲得、継承の方法として、私達は"Death Education”を提案する。

 “Death Education”、その名の通り『死の教育』である。たとえば、学校で育てた鶏を殺して食べる。それにより、自らの命は他の死の上に成り立っていること、そして自らの死が他の生に繋がっていることを学ぶのである。

 「死」を見つめ、そこから「生きる」ということを学ぶ。言い換えれば、”Death Education”とは「死」による「生」の教育ともいえる。

 “Death Education”は同時に“Life Edueation”となるのである。


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written by terasaka

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